爺の時事放題~ときどき音楽

               音楽歴50年爺さんの言いたい放題ブログ。

今のこの国は・・・

選管の発表数字を正しいとすれば、この国の有権者の約半数が選挙に行かないらしい。
世代ごとの違いはあるものの、ここでは全体の話にする。


FaceBookの友達500人の反応にもそれは現れている。私の投稿する政治ネタに「いいね!」やコメントをくれる人はほんとうに少ない。多いところで数十人だ。

私の投稿がタイムラインに流れるたびに「うざったさ」を感じてスルーしているのだろうが、それらの反応は私の投稿でなくてもほぼ同じだろう。


自分の生活の中で「食べたもの」や「買ったもの」や「日常風景」や「犬猫の生態」にしか関心がない人が大勢。
「FaceBookではそんな政治ネタには触れないけれど選挙にはちゃんと行っている」という人も中にはきっといるだろう。

反応はするのだが、「自分が声を上げても社会は変わらない」といった無力感、疎外感、諦念に浸っているようなコメントも多い。

「戦時中に戻るのはいやだ」「子や孫を死なせたくない」などの生理的、観念的な嫌悪感や拒否反応の段階で、それ以上考えることをやめている人もたくさんいる。


さらに残念なことに、そういう各層の間で言い争いや攻撃(口撃)も起こっている。

それは為政者の思う壺であり、ほんとうの敵を隠すための策謀だ。これは沖縄問題や中韓問題でも同じ構図。


官僚がメディアを使って情報操作をしているのに気がつかず、99%の羊同士で喧嘩をしている。

国民に背を向けた現政権の政策に対して、今1人1人が声を上げなければどんどん貧富の格差が広がり、戦争に巻き込まれ、未来の生活自体が成り立たなくなる。


今のこの国はそんな瀬戸際に来ていることを、もっとしっかり自覚してほしいと思う。


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聴こえるものを弾くこと

メロディは王だ (Melody is king)



このギターブログでは、「聴こえるものを弾く」ということが書かれている。

つまり、頭の中で理論に沿ったフレーズを弾けるように練習することも大切だが、それだけでは聴こえていないフレーズの連なりにしかならない。自分が実際に「歌えるフレーズ」でアドリブする練習が大事だ、という意味と理解した。


これはギタリストに限らず、歌(スキャット)も含めたあらゆる楽器に通じることだと思った。私はドラマーなのでドラムソロを例にとると、「ルーディメント(※)」を一生懸命練習したソロは、細かい音符の羅列になることが多く、特にアマチュアではドラミングに一番大切なグルーヴを損なってしまう。


(※)四肢を複雑かつ効果的に使って構成されるマーチングドラムの奏法


ここからは楽器一般に言えることだが、俗に言う「ツーファイヴ(Ⅱ-Ⅴ)」をはじめとして、いろいろなスケールやモードの理論をふまえて作られるフレーズ(アドリブのライン)は、往々にして「歌えないメロディ」が多い。何か難しいことをやっている・・・リスナーにそう感じさせるものの、どれも心に残らないメロディなのだ。

逆に言えば多くの著名プロミュージシャンのそれには、口ずさめるものが多い。それゆえに名盤の優れたアドリブとも言える。


コード理論など知らなくても、自然のうちに身体に沁みこんでいる感覚で歌えば、たとえ音痴でもメロディになる。それこそが自分に正直なメロディでもある。
人間に沁みこんでいる感覚とは「コード感覚(和音感覚)」のことで、人間の体はその流れに従って動くように出来ているのだと思っている。
(理論的なことは省くが)これは我々が小さい頃から数限りなく体験しているはずの、「起立~礼~直れ」のコード感覚(和音の流れ)であって、「礼」をしたあとは「直れ」に向って動きたい自然衝動が起こる。


人間の行動はこうした自然な衝動に無意識に従っている。つまり、動(礼)から静(直れへと終止したい衝動だ。これは音楽でも同じであり、全てのメロディは動から静へと移動(解決)して終わる。この自然な動きに忠実でありさえすれば、そこにフレーズが生まれてくる。


先日のジャムセッションでは、初心者のヴォーカリストがいきなり共演者に背中を押されて、見よう見まねでスキャットした。それは、部分的に理論にかなってはいなくても自然な衝動の発露だった。こうした身近な奇跡はしばしば起こる。起こらないとすればそれは理論に縛られすぎているのが原因だ。


もちろん(ブログに書いてあるように)自然の衝動だけでは音楽的な向上はない。
体の中から湧いて出るメロディをよりうまく表現するために必要なのが、理論であり練習であることは間違いない。

車のハンドルさばきが絶えず左右に振れながら、前進するためのバランスをとっていることに似ている。


しかし、「頭の中で考えたことを弾く」よりも「聴こえるものを弾く」ことが、音楽を楽しむために不可欠であることは事実だと思う。


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安全法制閣議決定の会見

首相のきれいごと



今日の会見は「きれいごと」のオンパレードで、そのせいで彼は原稿を見ずにしゃべることが出来たようだ。「きれいごと」の裏に隠れた意味、これは既にいろいろなところで言われているけれど、あらためて備忘録的にまとめておく。


■積極的平和主義

積極的に国際平和に貢献する、といえば聞こえがいいが、実際には、武器輸出の縛りをなくし、自衛隊派遣の地理的制約を拡大し、在外国民の命を守るという口実により紛争地域で行動し、日米安保法制を整備して、積極的に世界中の戦争の舞台に打って出るというもの。
これは理念的には憲法に矛盾し、実質的にも国民を危険をさらすものだ。


■切れ目のない対応
特定秘密保護法でも同じだったが、集団的自衛権をどう行使するかの具体的な法整備において、「恒久法」を作っておけば、政権にとって(いちいち国会に諮らずに)自由裁量でなんでも出来る土壌が整う。一見外交の対応が迅速になりそうに見えるが、与党内に主張の幅があって、牽制し反論しあう情況にあればバランスがとれるものの、現状はそうではなく将来も翼賛体制がエスカレートしかねない。
この情況についてはアメリカからも危惧の声が聞こえる。


■押し付け憲法

戦争直後GHQの草案が元になって作られた「アメリカ製の憲法」を日本製に作りかえるといえば聞こえがいいが、現憲法について歴史学者の間では、必ずしも「押し付けられたもの」という評価は定まっていない。それどころか、戦後の民間学者の「憲法研究会」の手になる草案がGHQ草案のたたき台になった。具体的に条文を比較すると、「主権在民」「基本的人権」「男女平等」「言論・表現の自由」など、現憲法と一致するものが多い。
安倍首相の言う「押し付けられた部分」とは唯一「戦争放棄」であり、戦争をする国にしたい安倍政権はここを変えたいがためにレッテルを貼っているだけ。つまり本丸は「九条」である。


■美しい日本/日本を取り戻す/戦後レジームからの脱却

ちゃぶ台を囲む戦前の家族のすがた、親や先達を敬う心、兎追いし里山などの原風景・・・、もちろんこうした価値観には本質的に残すべきものがあるが、それらを回顧し懐かしみ表面的に戻った先には、「国に従う」「公の秩序を重んじる」という国家主義がある。
事実、自民党憲法草案(第十二条)には、「公共の福祉」に代わって「公益、及び公の秩序」という言葉が用いられた。
戦後の個人主義風潮をあらため、国家主義へと舵を切る政策である。


ここにあげたいずれも、現政権の政策がまやかしであり、国民に背を向けて日本の平和と国民の安全をおびやかすものであるという証拠だ。




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